トゥバラーマ


幹事 S.S.


 序章

 ある曲を聴くと、風景が思い浮かぶということはないだろうか、 そしてその風景とともに風の匂いや陽射しの強さ、 そのとき隣りにいた人を思い出したり…、そのメロディが流れるだけで、 様々な思い出がよみがえってくる、そんな経験はないだろうか?


 でいごの花に

 あれから何年になるのだろう、沿道に赤い でいごの花 が青空に映え、 僕たちを迎えてくれたのだから5月…?
 そうそうゴールデンウィークを過ぎた閑散時期を狙って 出掛けたのだから5月の後半に間違いない。

初夏に咲く花でいご
初夏に咲く花でいご

 妻と中学に上がったばかりの娘を連れ、レンタカーを利用し、 沖縄をのんびり気ままに周ろうということで、 那覇空港から高速道路で一旦北の端、辺戸岬まで北上し、 そこから国道58号線を道路地図とガイドブックだけを頼りに北から南へ、 4日間、風の向くまま気の向くまま、海が見たけりゃ海へ向かい、 腹の虫が鳴けば道沿いの食堂に車を停め、腹を満たす。

 そんな気ままにありのままの、 そして普段着の沖縄に触れられたらと車を走らせた。

 日程も残すところあと一日半となり最終日は南部を周ってみようと、 国道331号線を糸満市の中心から ひめゆりの塔 へ向かう途中 『喜屋武岬』と書かれた標識に導かれ、南へ折れ、 舗装されてない農道をガタボコ10分ほど走り抜けると、 さとうきび畑の隙間から広大な風景が広がり、 その瞬間、紺碧の海と澄み切った青空の織りなす 境界線の美しさに言葉を失うほどであった。

紺碧のキャン岬
紺碧の喜屋武(キャン)岬


 藍より深く

 沖縄の海の美しさは今更僕が下手な説明をするまでのこともなかろう。
国道58号線を南下しながらも車窓から眺める白い浜と エメラルドグリーンの美しさには何度となく視線を奪われ、 ハンドルを切りそこなう場面もあり、 その度に助手席から「お父さん、前見て!」と甲高い声が響いたものだが、 その海の美しさとも違う。
 もっと男性的で、藍が深く、目の前に聳える岩礁と その岩に叩きつけられる白波とのコントラストは他に例えようがない。

 ザザンザザンと打ちつけられる潮騒の音さえ 目の前に広がる映像を演出するためのBGMではなかろうかと 錯覚されるほどに一体となり、 この風景を眺めているだけで日頃の雑念も消え、 しばし時間の経過さえ忘れてしまうほどに頭の中が空っぽになり、 初夏の心地よい風だけが襟元を通り抜けてゆく。


 耳鳴り

 もともと、この旅は妻からの提案があって実現したもので、 僕が長年煩ってきた耳鳴りがこのところ急激に悪化し、 そのストレスから少々気持ちが塞いでいた。
 そんなある晩、何年か前に家族で沖縄を旅行したときの アルバムを眺めていると、夕飯の片づけを済ませた妻が 「暖かくなったら沖縄へ行ってみない、3人で!」と唐突に!

 何を言い出したのかとお茶を注ぐ彼女の顔をキョトンと見つめる自分。
 多分あの時妻は、僕が耳のことで塞いでいたのを察知し、 そして、以前、永住したいとまで夢見ていた沖縄へ行けば 少しは気持ちが紛れるとでも思ったのかもしれない。

 当時、耳の聴こえは仕事を進める上でも支障をきたし始め、 会議中の発言者の声も聴き取りにくく流れが把握できない。 大事な用件を聴き落としたり、的をえない発言が目立った。
 或いは同僚と話しても生返事ばかりしている自分が 変に思われはしまいか、とそんなことばかり気になって、 仕舞には人と話すのさえ億劫となり、人前に出たくない、 出来れば部屋にこもって本でも読んでいたい、 そんな軽い鬱状態の日々が続いた。


 三線の調べ

 さて、話しは戻るがこの旅の最終の訪問地、 沖縄本島最南端の喜屋武岬の海を背景に三人で記念写真でも撮ろうと 三脚にカメラを備えたその時だったろうか、 海からの風に乗って聴こえる三線(サンシン)の調べ、 そのすすり泣くような音色と味わい深い男唄者(ウタシャ)の声に、 まるで時間が止まってしまったかのようにシャッターを押すのも忘れ、 その音色に聴き入ってしまうのだった。

 潮騒の音さえ包み込んでしまいそうな包容力とノスタルジーが胸に迫り、 単調なメロディーの中にも魂に訴えかけるような、強烈で、 しかも優しい音色が響き渡る。

 一体この音源は何処から聴こえ、誰が弾いているものなのか、 それを突きとめたくて子供の背丈ほどある柵を乗り越え、 海岸線を見下ろす断崖すれすれのところまで恐る恐る近づいてみた。
 しかし、その音源が何処から聴こえてくるものか、 姿さえ見えなかった。


 平和への祈り

 気がつくともうこんな時間、既に陽は西に傾きかけ、 遠くの海に太陽(てぃだ)の光がキラキラと反射し金色に輝いている。
 ふと、車を駐めていた駐車場を振り向くと、 古めかしい石碑が目に飛び込んだ。

平和の塔
平和の塔

 沖縄本島最南端の喜屋武岬は紺碧の海が見下ろせる 断崖絶壁の景勝地であるのだが、同時に沖縄戦の最期の地として、 この海はアメリカの軍艦で埋め尽くされ、 米軍に追いつめられた住民や兵士は、ここで行き場を失い、 この断崖から次々と身を投げ、 海は一面血に染まったという悲惨な歴史があり、 曲線基調でデザインされた石碑「平和の塔」は 沖縄戦終結前に亡くなった第62師団の将兵や 犠牲になった住民合わせて1万人の霊を弔う慰霊碑として 昭和27年に建てられたそうだ。

 そしてその横にさりげなく一枚のベニヤ板に記した 「平和の祈り」が立てかけてある。

平和への祈り
岬 岬 喜屋武岬
男性のような 荒波の岬
戦争は西から追われて
南に流れ
着いた所は 喜屋武岬
老いも若児も ここが最後の場所
ここが 喜屋武岬

 硫黄島やサイパン島に続く「バンザイ・クリフ」がここにもあった。


 自分への土産

 楽しい時間というのはあっという間に過ぎてしまうものだ。
 僕たちはそんな思いをあとに沖縄を離れることになるが、 レンタカーを返却し、飛行機の出発まで3時間、 どこか訪ねるには時間が足りない、 かと言ってこのまま空港に向かうには早すぎる。

 そこで国際通りで買い忘れた土産でも買って 軽いランチを済ませて行こうということになったのだが、 あの岬で聴いた三線の音色がどうしても頭から離れられず、 自分への土産に古酒(クース)を確保すると、 更にごちゃごちゃした細い路地を曲がって、 狭い店構えの楽器屋を見つけ安物の三線を手に入れてしまった。

 三線の音色はそれまでも沖縄を観光する度に何度となく耳にしている。
 ホテルのディナーショーで観る琉球宮廷舞踊、 琉球村で実演される八重山民謡の素朴な調べに、 そして玉泉洞王国村では躍動感溢れるエイサーの響きに、 いずれも三線の音色は耳に心地よい響きを与えてくれた。

 しかし、それは見方を変えれば観光客用に作られたものでもあり 普段着の姿ではないような気がした。
 そんな意味でもあの岬で聴いた三線の音色こそまさに 普段着のままの沖縄を感じさせてくれた貴重な体験であり、 その余韻はその後の僕の生き方に少なからず影響を与えることになる。

三線
三線


 暗号解読作業

 この楽器、自分への土産に買ったのはいいが、 帰宅してしばらく、どこから手をつけてよいものかさっぱり分からず、 ついてきた教則本を頼りにどうにか調弦を済ませ、 見よう見真似で弦にバチをあててみたり、 ギターのピックで3本の弦を纏めて弾いてみたりするのだが、 不協和音ばかり鳴り響き、そうそう甘くは弾かせてくれない。

 教則本を更にめくると、タテのマス目に漢字ばかり並んだ記号があり、 これがこの楽器特有の工工四(クンクンシー)という譜面であることが判り、 その読み方と指の押さえ方が説明してある。
 それはまるで暗号のようでもあり、 教則本を引っぱり暗号を解読しながら、そのポジションを指で押さえ、 水牛の角で出来たバチに人差指を突っ込んで弦を弾き、 音を鳴らす仕組みのものらしい、その作業は困難を極め、 ギターのような訳にはいかない。

 買う時に絶対ものにするからと妻に豪語した あの時の意気込みは一体何処へ行ったやら、 内心とんでもないものを買ってしまったと後悔の念がよぎって、 それからしばらくこの自分への土産はデスクの脇に埃を被った まま放置されることになる。

工工四譜
工工四譜


 左耳の失聴

 年の瀬も迫ろうとしていたある晩、風呂で髪をシャンプーする時、 頭を揺らすとキュインキュインと左耳の奥で耳鳴りの音が増幅する。
 耳鳴りとのつき合いはもう10年以上なるので今更驚くことでもないが、 こうして首を振ったり頭を揺らしたりするたびに音が増幅することは 今までなかったので、又ひとつ厄介なものを 背負わなきゃならないのか…と溜め息が洩れた。

 お風呂から上がって髪を乾かすドライヤーの音も 左耳からは聴こえにくい。傍で電話の呼び鈴が鳴り、 左手で受話器を握り左耳にあてる。
 それまで左耳のほうが聴きとりやすかったのでついクセになっていた。
 しかし電話の向こうからは何も聴こえない。

 ‘おかしい、電話機の故障だろうか?’と受話器を置こうとした瞬間、 ‘ひょっとして左耳の故障?’そんな思いがよぎり 受話器を右手に持ち替え右耳にあてると「モシモシ、どうしたんだ?」と 受話器の向こうから学生時代の友人の声がして、 いつもと違う僕の対応に戸惑っている様子だった。

 「ごめんごめん」と平静を装ってはみたが、この時、 初めて左耳の聴力が殆ど失われていることを気づくのだった。


 耳先まっ白?

 今まで聴こえにくかった右耳だったらそれほど驚かなかったろうが、 頼りにしていた左耳だけにそのショックは大きかった。
 こんな時、人はなんて言うんだろう?
 「目先まっ暗」じゃないし「耳先まっ白?」まさか。

 外の世界から遮断された時に困るのは仕事上での支障だけではない、 音を通してのコミュニケーションが完全に途絶えるワケだから その孤立感と言ったら…想像を絶する。

 電話が使えなくなるのは勿論のこと、 大好きな音楽も楽しめなくなるし、 友人や家族たちの声さえ聴こえなくなってしまう。
 それに波の音や風の音、川を流れるせせらぎの音、 自然からの囁きがすべて聴こえなくなってしまうのかと思うと、 生まれつき楽観的な性格だったはずなのに、 不安ばかりが膨らみ、布団に入っても眠れない夜が続いた。


 人口内耳

 そんな不安定な日が続いたある日、 新聞記事の「人口内耳」という見出しが目を惹いた。
 暗闇の中に一本のろうそくの明かりが灯ったようなそんな気持ちだった。
 その晩、帰宅するなりパソコンにしがみつき インターネットで「人口内耳」に関する情報を拾い集めた。

 そして、新聞記事にも人口内耳手術では実績があると紹介されている 某大学病院の教授、この先生の診療を受けるため 近所の耳鼻科医院で紹介状を書いてもらい、 ようやく念願の教授を受診する日がやってくることになった。

 しかし結論は期待したほど甘くはなかった。
 聴力検査の結果を見ながら教授が話してくれたのは 「人口内耳は耳の全く聴こえない人にとっては朗報だが、 音声信号を電気的な信号に変換して感じ取る仕組みだから、 健聴者の聴こえとは異質のもので、その信号を聴き取るためには それなりのトレーニングを積まなければならない。

 両耳が全く聴こえないなら兎も角、 貴方のように右の耳が少しでも聴こえるのなら、 生活において多少の支障はあるだろうが、その耳を活かすのが得策でしょう」 と納得がいくよう説明してくれた。
 それからしばらく、人口内耳のことは頭から遠のき、 教授の薦めにより補聴器外来に通うことになる。


 補聴器外来

 補聴器外来では、毎回、問診の前に補聴器との 適応性を調べるための聴力検査がある。

 何年か前、他の病院で検査した時には、 右耳の聴こえを示す折線グラフは右下がりに、 即ち耳鳴りの音に近似するキーンと高い周波数の音が 聴き取りにくいだけで、左耳はまだ正常値に近く、 日常生活に支障をきたすほどではなかったが、 今回の検査では左耳の聴力がほぼ全周波数域で 右耳の聴力より低下していることが判った。

 しかも、単に聴力の低下だけでなく、左耳の聴こえの特徴は、 例えば『キ』『シ』『チ』の聴き分けができにくく、 単純に音量を上げるだけでは解決できない厄介さが伴う。

 従って聴きとりにくい周波数帯の音量を上げ聴き取りやすくする しくみの補聴器も僕の耳には役に立ちそうもない。
 ちょうど子供の頃聴いた破けたトゥーイーター (高音域スピーカー)から漏れる音にも似ている。

 なるほど、耳の障害を持って初めて気づくことだが、 今まで難聴者には大きな声で話し掛ければ 聴こえてくれるものと信じていたが、 それだけでは解決できない場合もあるのだと。

 結局、何種類かの補聴器を2週間づつ普段の生活の場で使い、 聴こえが改善されるかどうか試させてもらったが、 目に見える効果は認められず、補聴器も救いの道には繋がらなかった。


 五十からの手習い

 耳が不自由になると人は余計に音にこだわるようになるのだろうか。
 多分、その頃からだったろう、‘もう一度楽器にチャレンジしてみよう’ と思うようになったのは…。
 折りしも会員のKさんのゴスペルコンサートに招かれ 感動を受けたのも大きな動機に繋がった。

 団塊の世代たちが今、定年を迎え、昔見たグループサウンズや フォークソングの夢をもう一度再現したいと週末のYAMAHA音楽教室は 連日超満員であると新聞記事に載っている。

 僕もその世代と重なる。学生時代、 ビートルズやサイモン&ガーファンクルに現を抜かし 期末テストもそっちのけでギターの練習に明け暮れた時期もあった。
 でも今の僕には錆びついたギターの弦を張りかえる元気はない。

 それよりあの岬で聴いた三線の音色が脳裏から離れず、 両耳が聴こえなくなる前に、 どうしてもあの時のあの調べをこの手指で奏でてみたい。
 そんな因縁めいたものに心惹かれるのであった。

 そうなるとじっとしていられない性分で、 どこかに三線を教えてくれるところがないかと インターネットで検索してみる。
 すると、どうだろう、特殊な楽器なので下手すりゃ 横浜とか東京まで通わなきゃならないと覚悟を決めていたのだが、 すぐ隣りの茅ヶ崎に教室を開いているところがあることを知り 『一日体験入学』の申込みをすることになった。

 やはり因縁めいたものがあるんだろう。
 デスクの脇に埃を被って立てかけてあった自分への土産を引っぱり出し、 「やっとおまえの出番がきたぞ」とやわらかい布でその埃を払い落とした。


 一日体験入学

 真夏の太陽が照りつける、 ちょうど沖縄の夏を感じさせる灼熱の陽気だった。
 布袋に包んだ三線をママチャリのカゴに立て掛け、 教室の門を叩くことになる。

 頭の中ではこんな古風な楽器を習ってる人は 礼節を重んじる年配の人ばかりで、 足のシビレも我慢しながら背筋を伸ばして 受講しているシーンばかり想像されたのだが、 それは見当違いだったようで、 生徒たちは僕より若い人たちばかり、 しかも先生と呼ばれるサーファー風の 日焼けした顔のお兄ちゃんは、 子供さんがまだ1歳になったばかりの若先生、 伸ばした髪はちょんまげのように無造作に後ろに束ね、 笑い顔が人懐っこくティーシャツとカーゴパンツ姿という ラフな格好で、僕の隣りに座り、三線の持ち方と正しい姿勢、 そして調弦(チンダミ)のやり方、 工工四(クンクンシー)と呼ばれる譜面の読み方、 バチの使い方、弦の押さえ方と基礎的なことを手際よく教えてくれた。

 この飾らない人柄が頼りい印象は残るものの、 親しみやすく、この先生にならついていける、そんな第一印象だった。


 がじゅまる

 習い始めて3ヶ月、沖縄音楽として最も親しまれている 「安里屋ゆんた」を譜面なしで弾けるようなった頃、 先生から3月4日(サンシンの日)に一番近い日曜に 「ここ湘南の地を発信に三線の輪を広げよう」との主旨で 『湘南三線のど自慢大会』が提案された。
 出場条件は「三線を愛し、かつ楽曲に三線を使用すること」 という単純明快なものだった。

 最初の頃はイメージが湧かなかった僕も、 準備を進めるうちに先生の意図することが少しづつ理解でき、 出来ることなら僕も皆の邪魔にならない程度に参加させてもらえたら、 と思うようになってきた。

 その頃、クラスは「うりずん」から「がじゅまる」へ移り、 「がじゅまる」は他のクラスに較べレベルが高く、 未熟な僕にはついていける曲は数少なく、 稽古中も譜面を追ってゆくのが精一杯で、 意識すればするほど爪弾いている手も硬直し、 教室を終え帰宅するとぐったりと溜め息ばかり洩れた。


 皆からの理解

 耳が聴こえにくいばかりに周囲から誤解を招くことがある。
 先生が「次は○○節を演奏します」と言う言葉が聴きとれず、 出だしのタイミングを失い、追いつくのに四苦八苦し、 やっと追いついたと思ったら既に演奏が終っていたりすることもあった。

 ひとりなら自分のテンポで歌い演奏することも出来るが、 合奏となると周囲の音を聴きながらそのテンポに合わせなくてはならず、 自分の演奏する音ばかりが大きく聴こえ、周囲の音とのバランスや、 テンポを合わせることがことのほか難しく、 周りの人の肩や足の動きを注意深く観察しながら それにテンポを合わせ演奏しなければならない。

 そこでクラスが移ったのをいい機会に、 自己紹介の折りに自分は耳が聴こえにくいことを伝え、 次の点に配慮してもらえるよう仲間たちの理解を求めた。

  1. 話しかけられても返事出来ない時があるかもしれませんが、 聞こえないだけなので、軽く肩を叩いてゆっくり話しかけて下さい。
  2. 大事な用件や連絡事項は出来れば口頭でなく、メールで確認して下さい。
  3. 先生にお願いしたいのは、次の曲の紹介は譜面を立て、 見えるように紹介して下さい。
  4. 先生の声が聴こえるよう座席は一番前の席にして下さい。
 そんな我儘の数々を先生も仲間たちも快く受け入れ、 フォローしてくれたおかげで練習はことのほか順調に進んだ。

 いよいよ大会の日がやってきた。
 今までひとのライブを聴くことはあっても自分の演奏を 聴いてもらうことはなかったので、舞台裏がこれほどまで 入念にしかも手際よく段取りされているとは夢にも思わなかった。

 立ち位置のチェック、マイクチェックを済ませ、 ビデオ撮影も任されていたのでそのの準備にあっという間に時間が過ぎ、 一段落ついて控え室に戻るとそこでは前半戦に出場するグループが 衣装やら楽器の調弦に余念がない。
 僕たちも白いTシャツに赤いバンダナ姿という シンプルな出で立ちだけど準備して出番を待つ。

 この日僕たちは宮古、八重山の民謡3曲を披露することに なっているが、2曲目の『なりやまあやぐ』の出だしでは ソロを務めさせてもらうこともあり、 徐々に緊張感も高まり三線を握る手が汗で濡れ、 立ち姿勢での演奏が幸い僕には座ったままできるよう イスが用意された。

 ピアノのイントロが静かに流れ、その上をゆっくりと、 そして力強く三線の音色が重なり、僕の歌声が会場全体に響き渡る。
 歌い終わって、会場からの割れんばかりの拍手を噛みしめながら、 やったんだ、無事に終わったんだ、役目を果たすことが出来たんだ。
 高いハードルを飛び越えて乾燥したあとの歓びは 何にも替えがたいものであることを実感した。


 うーなーみー

 あれから1年、今年(2006年)も3月5日(日)に 第二回目の『湘南三線のど自慢大会』が開催された。
 去年は初めてのことだったので、 ただただ周りの言われるまま、ついていくのが精一杯だったが、 今年は去年よりちょっと気持ちにゆとりが出来、 唄を通して‘自分らしさ’のようなものが表現できればいいと、 二人のメンバーを加え「うーなーみー」というグループを 結成することになった。

 3人とも三線を習い始めて日が浅く、技術的には未熟な点もあるが、 三線に対する情熱と向上心にかけては誰にも劣らない。
 自分たちで手作りの音楽を創りだしたいと願うものばかりである。

 初回打合わせの日、グループの名前、テーマ、選曲、楽器構成と 受け持ちについて話し合った。
 グループ名の「うーなーみー」は三線の弦(チル)を 太い順に「男弦(うーぢる)」「中弦(なかぢる)」「女弦(みーぢる)」 と呼ぶことから、三本の弦が重なって美しい調べを奏でられるよう 願いをこめ三本の弦の頭文字をとって名づけた。

 テーマは「花と平和」、構成は三線とギター、 そして西アフリカの打楽器ジェンベで、 3曲を選び年明けから練習を開始した。
 「がじゅまる」の練習も並行して行われたため 十分な時間はとれなかったが、 それでも毎週木曜日に仕事を終えてから我家に集まり 夜遅くまで練習に励んだ。


 いよいよ本番

 いよいよ本番の日、会場も一回目に比べるとバージョンアップ、 出場者も24組80名以上が参加し、 遠くは熊本から参加するグループもあり、 レベルも去年より遥かに高くなっている。

 僕は第1ステージの終盤に「がじゅまる」というグループで 島太鼓を受け持つ、耳に障害を持つ身にとって 繊細な三線の音に合わせ太鼓を叩くのは至難であったが 敢えてそれに挑戦してみた。
 第2ステージの序盤ではいよいよ「うーなーみー」の出番で 唄三線とギターを演奏することになる。
 グループのテーマ「花と平和」のメッセージを どれだけ聴いている人たちに伝えられるか、 去年とは違う意味での重圧がのしかかってきた。

 しかし、練習の成果もあって「がじゅまる」では準グランプリを受賞し、 新しいスタイルに挑戦した「うーなーみー」では賞こそ逃したものの、 審査員の評価も高かった。
湘南三線のど自慢大会HPより 「第二回大会報告」参照)


 大会を終え

 僕にとって、賞をとる、とらないはさして大きな問題では なかったような気がする。
 そのことより、ひとつの共通の目標に向かって仲間たちと 力を合わせやり遂げたこのプロセスが価値あるもののように思え、 僕自身にとっては耳の障害を乗り越え、 大会にチャレンジすることによって考え方が前向きになり、 「新たなことを始めるのに遅過ぎることはない」ということを 気づかせてくれたことが何より貴重な体験だったと確信するのだった。

 大会を終え、打上げの時に乾杯したオリオンビールの旨かった ことといったら格別である。


 天使の階段

 薄曇りの空の下、もうすぐ5歳になるコリー犬ハルのリードをひいて、 茅ヶ崎の海岸まで散歩に出かける。
 もう一方の手には三線を包んだ布袋を、 そして隣りには妻が犬のお散歩バッグをぶらさげてついてくる。 心地よい風が潮の香りを運んでくれる。

 やがて夏がやってくると湘南海岸は他府県ナンバーの車で埋め尽くされ、 日焼けしたサーファーたちでごった返すだろう。 しかし今はまだ静かな海岸が広がっている。

愛犬ハル
愛犬ハル

 ハルのリードをデッキにくくりつけ、 砂浜に下りる木の階段に妻と隣りあわせに腰掛ける。
 湘南の海には喜屋武岬のような断崖絶壁はない。 海の色もあの深い藍色ではなく、 遠くに‘えぼし岩’が波しぶきに霞んで浮かんで見える。

 持ってきたペットボトルのお茶でのどを潤し、 布袋から三線を取り出す。
 海風に砂が舞いたつ、上昇気流に乗ってトンビが 気持ちよさそうに飛びまわっている。
 冬の厳しい寒さはない‘イラヨイ月夜浜’の静かなイントロが 潮騒の音に混じって砂浜に響き渡る。

 「ねぇ見て、あれ天使の階段って言うんじゃない?」 隣に座っている妻が海の向こうを指さし無邪気な声をあげる。
 「おいおい人の唄聴いてないんか?」 ムッとしながら妻の言葉を遮り 「来年はどんな唄にしようかなぁ」と顔を見合せる。

 雲の隙間から洩れる陽射しが遠い海を照らし、 キラキラと眩しいほど輝いている。
 波打ち際に子供たちが若い母親に連れられ、 寄せては返す波と戯れる姿が逆光で映し出され、 やがて辺り一面オレンジ色に染まる。
 潮騒の音は邪魔にならない。

オレンジ色に染まる風景 湘南海岸
オレンジ色に染まる風景 湘南海岸

 最近、喜屋武岬で聴いたあの曲が「トゥバラーマ」 という唄であることを教えてもらった。
 八重山諸島を代表する叙情歌で、掛け合いで歌うその曲は

 戦さ世ど吾な 恨めり
 親子妻夫 離散り なりねえぬ


 戦争の世が 私は恨めしい
 親も子も妻も夫も 離れ離れになってしまった。
 そんな意味の唄らしい。
 目をつぶると、喜屋武岬でのあの風景が心地よい風とともに浮んでくる。

おわり


※トゥバラーマ: 八重山を代表する民謡。
一説でトゥバラーマは訪(とぶら)うという言葉から来ており、 野良で働きながら自分の思いを歌にして送ると、 彼方から見えない相手が歌を返してくるという、 ロマンチックな掛合い歌だった。
 八重山の人にとってトゥバラーマは 自分の気持ちを乗せる船のようなもの。
 ひとつのメロディーに、たくさんの歌詞がある。

海岸

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