H.Y.
体験を通して得たことを文字で表すのは難しいことですが、
会員の皆様にこの手記を読んでいただいて、少しでも“勇気”が
伝われば幸いです。
今から3年前の雨の日に、主人はASを発症しました。
当時、仮採用だった主人は、1ヶ月半、病名がつかないまま整形外科に
入院(この病気ではご法度といえるコルセットを強制的に作成・装着)。
その後、ある日突然「膠原病」と言われて内科へ転室、そこは北病棟の
苦=9のつく部屋でした。主人は、連日連夜の大泣きで、追い打ちを
かけるように職場の上司や同僚から「クビになるかもしれない」
「身分の保証は無い」と言われました。さらに、内科の主治医からも
「まず社会復帰は無理でしょう、車椅子の生活ですね、入院は最低でも
半年かかります」と。
仮採用で6ヶ月以内に復帰できない場合は「採用取り消し」になる
ところでしたので、大ショックでした。
当時、3歳と1歳の子供を持つ妻としては、耐えきれないほどの
闘病生活の始まりでした。もうそれはそれは悲劇のドラマの主人公の
よう日々を体験しました。
主人の社会復帰まで、一時は“一家心中”が頭をよぎり、また
“主人が飛び降り自殺せえへんかな?”など、変なことばかり考えた
時もありました。
しかし、神様・ご先祖様は私たち一家を見守っていてくれたんです。
なぜなら、親族に保健婦さんがいて、この“らくちんの会”の存在を
知らせてくれたからです。
そして、早速連絡。この病気の名医である先生の紹介、自己退院の
決意……(泣き虫の主人はセカンドオピニオンを聞く日、しゃくりあげて
泣いていました)。
そして、タイムリミット(採用取り消し=くび)までの自宅療養、
私は泣いてばかりの主人の代わりに、一家の大黒柱に変身したものの、
何度も何度も「あ〜あかん、日にちがない、もうクビや!、3人を
食べさせていかな!」と決断はできましたが、周囲からは心無い“離婚”
という言葉や、なにより白髪の原因である姑の言葉「しんどい仕事で
無理がたたった」「息子の病気はあんたの母親のせいや!」と私の母と
私を責める言葉。
今から思えば“AS闘病”がなければ、この言葉だけでもノイローゼに
なっていたところです。ASになってくれてありがとう(笑)。
でも、もっともっと辛い方がいるのに申し訳ないのですが、当時は、
今思い出しても、本当に辛い辛い闘病生活でした。
しかしです。“らくちん”の会のたくさんの方々から
「死ぬ病気じゃないですよ。安心して下さい」
「この病気は本人が主治医なんです」
「東京に一度いらっしゃい。診て大丈夫そうなら復職できますと
証明してあげますよ」という温かく勇気づけられる言葉が舞い込みました。
田中会長は、ご自身の病状もままならないのに、翌日には紹介状を
送って下さり、また、ご子息の仲介のお陰で、井上先生からは
ミュンヘンより(学会でドイツに滞在中)、初対面ではなく初対声なのに、
“激闘コール”をいただきました(生まれて初めての国際電話で緊張
しました。私の英会話は通じたんでしょうか?)。
名医の小松原先生、辻本先生には、職場復帰に導いていただきました。
そして、なにより、社会復帰に向けて頑張っていた私たちが体力的にも
肉体的にも諦めかけた時、土方先生は、主人や私に、「あきらめちゃダメよ!。
社会復帰の方法はたくさんあるはずです。ひとつとつTRYしたらいいのよ!。
必ず方法はあるはずだから頑張りなさい。若いんだから頑張らないと!」。
その言葉は、これからASと付き合って行く私たちにとって、何よりの
言葉のプレゼントでした。
この言葉が私たち家族の原点です。
この病気は進行はあっても治りはしません。私は妻であるため、
ASの痛みは全くわかりません。でも、ASの主人を持つ妻であることで
得たことは沢山ありました。これからも沢山あると思います。
もし、「辛い、もうダメ!」と思った時は、“らくちん”の勇者の方と
一度お話してみて下さい。きっと何か得られるはずです。私が保証します。
大丈夫!、一人ぼっちじゃないですよ。
私たち家族に、ASと共に生きる勇気を与えて下さった“らくちんの会”
のみなさん、ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。
そして最後に、ASが発症しなければ離婚していたご主人様、辛い
闘病生活、よく耐えてくれて、本当にありがとう。
これからも頑張って私たち家族を守ってくださいね。
でも、ひとつだけお願いがあるんです。
痛みが辛いのはわかりますが、家族に八つ当たりするのは
勘弁して下さい!
おまけ
入院証明書の申請の時、内科・整形外科の病名違いでモメていた先生方、
忙しいとの理由で患者を薬漬けにしないで下さい。
もっと患者の気持ちに耳を傾けて下さい。
お願いします。
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