済州島から見た東アジアの海域交流史          藤田明良

「耽羅ワカメ」との出会い

  現在、私は奈良の天理大学で、主として留学生の歴史教育(日本史・対外交流史)を担当している。専攻は中世の海域交流史。特に島嶼に関心があり、友人からは「島オタク」と呼ばれる。私と済州島と交わりは、ワカメから始まる。といっても今から600年以上前、高麗末期のワカメである。

  1368年の夏、陸地に向かう船に、沢山のワカメ(海菜)を担いで乗り込んだ男がいた。別に珍しい光景ではない。耽羅では古くから特産のワカメを本土に移出している。だが彼は済州島の者でもなければ、全羅道の商人でもない。中国は上海南方に浮かぶ舟山群島から、数日前に耽羅に来航した船団の一員なのである。朝鮮王朝時代の外交文書集『訓読吏文』の中に登場する史実である。

  この年、中国では元末争乱を制した朱元璋(洪武帝)が明朝を建てた。しかし、江南の海上勢力の中には、これに抗戦を試み、敗れて海外に逃避した連中も多い。この男が属した蘭秀山の一党もその類である。僅か4日間で耽羅に到達、しばしの休息後、本隊はさらに半島本土に向かった。が、彼は耽羅で船を降り、財布をはたいてワカメを買込む。これを陸地で売り捌き、当面の糊口を満たそうという算段だった。その後も境遇は二転三転、結局、2年後に全羅道のある島で捕まり、匿っていた高麗人家主と共に、明に送られるというのが、話の結末である(拙稿「《蘭秀山の乱》と東アジアの海域世界」『歴史学研究』698  1997年)。
 

東アジアの海域世界

  かつて陸地しか視野に入れてなかった日本の歴史学も、近年やっと海の世界に目を向けつつある。海の視角からすれば、済州島はアジアの重要な海上ターミナルだ。すでに高麗時代、「宋商や島倭の往来しない時は無い」と、中国や日本の船も寄港した。江南の海上勢力が逃避先に選んだのも、以前から航海を通じて、済州島民と関係を有していたらかに違いない。済州島と舟山群島は、国は違えど共通点も多い。どちらも生活上の海への依存度が高い。陸地や国家から見れば、方言を用い習俗の異なる辺境であり、「卒悍民囂」(済州)「悍勇善闘」(舟山)と、蛮勇な「島夷」の棲む所と映る。これはさらに、「耽羅狼心」(済州)「掠商人財物」(舟山)と、海賊の巣というイメージにもつながっていく。

  もちろん、両島民は国籍も違い、言語をはじめ異なる点も多かったろう。だが、海に生きる者のバイタリティは、そんな障壁を容易に乗り越えてしまう。上述の舟山島民と耽羅や高麗の島人の交流の話が、それを物語っている。島嶼社会はそれぞれ互いに豊かな個性を持つが、決して閉鎖的だったわけではない。海の交流を通じて、人・物・情報の広域ネットワークを有し、来訪者に対して開かれた性格も併せ持っていた。これは日本の対馬や五島、そして沖縄にも通じる性格であろう。

  海域史研究の素材として、私が注目しているものの一つに「海産物」がある。ワカメや昆布などの海藻だけではない。真珠やアワビ(鰒魚)のような魚貝類、オットセイ(水狗・海獺)やアザラシ(水豹・海豹)などの海獣類、様々な海産品が、貿易・貢納品として海域を移動し、周辺諸国の支配層・都市民に珍重されていた。島はその集散・加工の場でもある。済州島の大鰒も、中国商人が競って購入するという記述が、既に17世紀初期の朝鮮料理書に登場する(拙稿「中世《東アジア》の島嶼観と海域交流」『新しい歴史学のために』222  1996年)。
 

研究プロジェクトの船出

  1996年8月と99年5月に現地を訪れる機会があり、ますます済州島が気になっていたところ、大学時代の先輩・高橋公明さんを通じて、99年8月、耽羅研究会主催の第1回済州島研究国際シンポジウムで、報告する機会をいただいた。私は先述の史実を紹介し、日本との関係に加えて中国との歴史的交流への視点の必要性を説いた上で、この島の海外交流の史実に、遺跡や伝承からもアプローチしたい、という抱負を述べた。

 農本主義を掲げる儒教を国是とする朝鮮半島では、民間伝承においても海洋的あるいは渉外的な要素は少ない。だが、座礁した唐船の積荷が出土する高齢田、中国に帰る船が沈んだ遮帰島、中国から流れて(飛んで)来た山が止まって出来た飛揚島など、実否はともかく済州島には、海外と結び付つく伝承が豊富にある。さらには、ヨンドン(霊登)祭などの祀詞や儀式にも、かつての海上交流の名残りを思わせるものが登場する。中国沿岸や沖縄で信仰される海の女神・媽祖(天妃・天后)と、ヨンドンの女神との関係も気になるところである。

  このシンポジウムで私は、済州島に関心を寄せる大勢の研究者や市民と、交流することができた。宿舎の部屋でも続いた飲み会では、共同研究のプランも出た。この計画はとりあえず、地理学の河原さんと人類学の李善愛さんと歴史の私の3人で、スタートさせることになる。とも年齢が近く、フィールドワークと海の幸と酒が好きという点で意気投合したのである。「島嶼からみた朝鮮半島と周辺諸地域との交流−済州島を中心に−」というテーマで、韓国文化研究振興財団から助成も受けれることになった。私の分担は「済州島の古文献や現地に残る海外交流の歴史的痕跡の調査」。高麗・朝鮮王朝時代の貿易や倭寇に関わる史料・遺跡・伝承や、古文献に貢納・貿易品として登場する島の特産品の実態から、海の彼方のと交流の歴史を探っていくのである。
 

チングの海に豊かな島を

  3人の研究チームは、これまで2000年3月に五島列島、8月に済州島で調査を実施した。李さんは9月初めに鬱陵島に行くため、8月の調査には不参加だったが、代りに、やはりシンポジウムで盃を交わした済州大学博物館の高光敏さんが、全面的に協力してくれた。現在、報告書をまとめている最中なので、調査の詳しい内容は別の機会に譲り、調査中のエピソードを2つ紹介したい。

  「こいつとはチングなんです」。五島の調査で同行してくれた町役場の若い職員が、途中で出会った若者を我々に、こう紹介した。「チングって韓国語ですよ」。驚いて李さんが言うと、今度は逆に二人が驚く。仲の良い者、親友のことを、昔から五島ではチングと呼び、地元の古い方言だと信じていたからである。帰ってから調べると対馬にも、同じ用法のチングがある。単なる偶然ではないだろう。五島は、済州島をはじめ朝鮮各地から、漂流船が多く流れ着く場所だ。また長い歴史の中で、海上でもいろいろな出会いがあったはずである。この呼びかけに、見知らぬ者どおしが出会った時、相手の警戒心を解く作用がある。チングという言葉が、国境をこえて、一つの海の此方と彼方に残った理由は、そのへんにあるのではなかろうか。

  「藤田さんの好きなワカメが採れなくなった海が出てきてます」。真夏の陽光に蒼く輝くの海を車中から眺めていた私は、運転している高さんの声に、はっとした。アワビやサザエをはじめ無数の生命を育む、豊かな済州の海藻の茂み。その衰えが各所で目立ち始めているという。舗装された海岸道路のおかげで、観光客は快適なドライブが楽しめる。だがその工事による埋め立てや土砂の流出が、高さんが「海の畑」と呼ぶ磯海の環境を変えていたのである。さらに生活排水による水質汚染が、追い討ちをかける。

  「磯焼け」で荒涼となり悪臭を放つ海を、日本で幾つも見てきた私は、済州の海が同じ運命をたどるのかと思うと慄然とした。暖流と寒流がぶつかるこの島は、海産物が豊富で希少種も多い。自然の豊かさこそが、昔からこの島の財産だったはずである。高さんたちが鳴らしている警鐘が、島じゅうに響きあい、事態が改善していくことを願わずにいられない。すがすがしい海の香を放つあのワカメが市場から消えてしまったら、一体、私は何を土産に買って帰ればいいのだろうか。(ふじた・あきよし  天理大学助教授)
 
 

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