『皮革手鑑』から見えるアジアと近世日本     藤田 明良



 中村真一郎の遺作『木村蒹葭堂のサロン』で、一躍有名になった大坂の文人・町人学者の木村蒹葭堂(1736〜1802)。私立博物館のルーツともいわれるその多種多様なコレクションの中に、アジア各地の皮革類を集めた標本があった。

  長らく埋もれていたこの標本は、1940年、近代日本の医学と人類学に大きな足跡を残した清野謙次氏によって見出される。氏はこれを『皮革手鑑』と命名し、著書『太平洋に於ける民族文化の交流』(太平洋協會編・創元社発行)に、「木村蒹葭堂の異國研究と其の皮革手鑑」の一章を設け、図版入りで紹介を試みた。だがそれは四四年九月という戦局悪化の時期と重なってしまう。戦後も、この本を顧みる人は少なく、蒹葭堂の『皮革手鑑』も世間の注目を浴びることはなかった。

  他界直前の1955年6月、清野氏はこの『皮革手鑑』を、天理大学付属天理図書館に寄贈する。標本が貼付されていた台紙は、かつての反故和紙から真新しい厚紙の折本に替えられ、りっぱな木箱に納められた。その蓋には直筆で、太平洋交流の第一級資料という趣旨が裏書されており、氏が特別の思いをこれに寄せていたことが知られる。1960年より、同図書館の『稀書目録・和漢書之部・第三』に掲載され、所定の手続きを経て閲覧できるようになっている。

  『皮革手鑑』の現状は十一頁の折本で、各頁上下二段に標本が貼られ、その右横に品名などが書いた、蒹葭堂の手になる色紙の短冊が付されている。頁によっては上段と下段の間に、標本と色紙が貼られているものもある。当初あった標本や色紙が剥がれて無くなった箇所には、白紙の短冊が代わりに貼られている。清野氏の著書は二頁分の写真が掲載されているが、それを見る限りでは新しい台紙への張り替えは、以前の原状に忠実に行なわれたようで、標本や色紙の剥落も、ほとんどが氏の入手より前のものらしい。現況は、標本94種、色紙75枚が残っており、両者が揃っているのは51組ある。だだし、色紙と標本の組み合せには錯簡も認められ、全てを蒹葭堂が並べた状態のままと、考えることはできない。

  標本の皮革類は、虎や銀鼠などの毛皮、水牛・野牛などの鞣革、紋革・金唐革など模様革と、実に様々である。色紙に書かれた名称には、地名を付したものも多いが、其の内訳は、姫路・山城八幡・肥後古閑橋という国内よりも、蝦夷・琉球・中華・朝鮮・ヲロシア・印度・阿媽港(マカオ)・サントメ(インド東海岸)・和蘭(オランダ)など、世界各地の国・地域が大多数を占める。これらは、産地・加工地・中継地などを指すと考えられるが、ここに見られる標本は、実はいわゆる皮革だけでない。更紗・羅紗・モウル・アンペラなど、アジア各地の織物・編物の標本も少なくないのである。

  『皮革手鑑』は、命名者の清野氏がいうように、モノと情報の交流から、アジアのなかの近世日本を見直す、まさに絶好の資料である。しかしその研究は、半世紀以上前の氏の論文で止まっており、様々な角度からの検証・考察を、今すぐにでも再開しなくてはならないだろう。大坂で木村蒹葭堂が、このコレクションを収集してから、すでに200年以上の年月が経過した。だが、例えばエゾテンの毛皮が、羽毛のような柔らかさを保っているように、台紙の上の標本たちは、未だ鮮烈な輝きを失ってはいない。アジア各地からやってきた標本たちが、多くの人々の手で、自分たちの真価が引き出されることを切望しているように、思えてならないのである。

    
〈天理大学附属天理図書館所蔵〉

(小文の作成にあたり、大塚和義氏から『皮革手鑑』について、森下雅代氏から皮革加工について、多くのご教示を受けた。記して謝意を表す。)

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