海獣との出会い ―「異分野協業」の楽しさ―

  私が海獣と初めて出会ったのは十年前、朝鮮半島東方に浮かぶ鬱陵島である。といっても現地で実物を見たたわけではない。日本海交流史におけるこの島の役割を考えるため、大学の書庫で古文献を漁っていた時、十五世紀の島の産物である「海獺皮」と「水牛皮」と遭遇したのである。水棲動物の漢字表記は、海驢や水狗というように「海(水)+獣名」が多いが、実態との乘離や混用、或いは時代と地域による偏差が甚だしい。海獺も日本の辞書ではアシカの古名となっているが、中国ではラッコのことである。五〇〇年以上前の史料に登場するこれらの皮の持主を、現在の動物名に比定するのは、無謀な冒険に思われた。

  しかし史料の少ない海の歴史の、貴重な痕跡を見過ごすわけにはいかない。ともかく同時代の史料を捲っていくと、日本海に面した郡県や沿海州の女真人が朝鮮政府に貢納していたこと、入手の難しい稀少品だったこと、朝鮮から中国へも進上していたことなど、海獺皮に関しては幾つか情報が拾えた。さらに本草書を渉猟し、「膃肭臍」の朝鮮名として海狗腎と共に海獺を載せる『郷薬集成方』(朝鮮・15世紀)や、海獺は「襟巻の素材としては貂につぐ」という『本草綱目』(中国・16世紀)の記述に行き着いた。ここで鬱陵島の海獺皮はオットセイの毛皮であるという一応の結論に達したが、動物学の本を開くと、日本海西部はオホーツク海産のオットセイの回遊ルートになっている。好物の魚やイカの豊富な潮目での目撃情報が多く、鬱陵島近海はまさに猟場にピッタリであった。

  水牛皮の考証はさらに難航した。いわゆる水牛(water buffalo)の北限は中国江南から沖縄で、朝鮮半島には生息しないから、これは別の動物である。同時代の朝鮮史料には、西岸の遼東との境界の島々にも水牛が登場するが、そちらはゴマフアザラシと考えられる。この海域に「牛皮の如く堅い皮」を持つ「短い淡青色の毛の上に深青色の点」の海獣がいると『本草綱目』に記載があるし、近年の調査でも生息が確認済みだ。だが鬱陵島の水牛のほうは、動物的特徴の記述や分布データはない。諦めかけた時に、十九世紀前半の実学者李圭景の『五洲衍字文長箋散稿』で、鬱陵島のカジ(嘉支、可之などと表記)という海獣の考証に出くわした。「形ハ牛、眸ハ赤ク、角ハ旡シ」、「鱗旡クシテ毛有リ。魚身ニシテ、四足。而シテ后足ハ甚ダ短ク、陸デハ善ク走ルコト能ワズモ、水行ハ飛ブガ如シ。声ハ嬰児ノ如ク、脂ハ燃灯ニ可キナリ」。特徴が詳述されている上、「其皮ヲ水牛皮ト混称ス」と記されている。漂流の末に島影を見出した思いであったが、このカジは何という海獣なのか。門外漢にはこれ以上判別できない。韓国の友人に聞いても知らないという。意を決して、鰭脚類の専門家・伊藤徹魯氏に、面識もないのに史料の訳文を送ることにした。

  数日後、長文のファクスが届く。判定はニホンアシカ。李圭景の記述から二十箇所以上のポイントを摘出し、ひとつ一つに厳密な検討を加えた結果である。特に感服したのは、近類種のトドやオットセイとの峻別である。これらの虹彩が黒色系なのに対し、シーボルトが持ち帰った剥製を調べた動物学者のテミンクの記述(一八四四年)から、ニホンアシカは「赤味を帯びた褐色」だったことを確認、これが「眸ハ赤ク」という記載と一致すると論じている。氏の平淡な文章を読みつつ、洋の東西の学者による一五〇年前のアシカ記述の邂逅に、思いを馳せずにはいれなかった。

  これを機に、海の生活交流史をめざす私の仕事に、「海獣」という項目が加わった。同時に自然科学系の研究者と協業する機会も増えた。文系と理系では思考回路が異なるというが、だからこそ、いつも新しい発見がある。今回の『北方の先住民交易と工芸』は、最先端の分析化学を含めた、幅広い学術分野の共同作業である。あの刺激に満ちた準備の場の雰囲気が、各論考に反映されているはずに違いない。

(『鴨東通信』43号、思文閣出版、13頁、2001年9月に掲載)
 

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