中世大和の在日外国人 藤田 明良
―東大寺再建で国際交流、摩擦乗り越え異文化融合―
天理大学には、百名を超える留学生が在籍し、私も日本史やアジア交流史を彼らと一緒に勉強している。
今年も授業テーマの一つに、「中世の在日外国人」をとり上げることにした。古代に比べて認知度は低いが、中世の日本列島にも、海外から渡来した人々がいる。鎌倉時代の貿易商人謝国明や、禅僧の無学祖元は、昨年の大河ドラマで一躍有名になった。室町時代以降でも、饅頭を伝えた林浄因、銘菓ういろうのルーツ陳外郎、五山版の版木を彫った兪良甫、安土城の瓦を焼いた一官などの名は、ご存知の方もいるかもしれない。中国系ばかりではない。勘合貿易のコーディネーター楠葉西忍は、幼名をムスルといい、父の天竺人ヒジリは、アラブ系商人であったといわれている。中世の渡来人の事跡は、博多や兵庫など西国の港町と、政権が所在した京都・鎌倉に多いが、この奈良も、彼らにとって特別な地であった。
平安時代の貴族たちは、舶来品を珍重したが、ヒトの流入は歓迎せず、外国人の居住は、博多などの玄関口に限られていた。列島各地で渡来人の活動が復活するのは、鎌倉時代以降である。その先鞭をつけたのは、平氏に焼かれた東大寺の再建だったと、私は考えている。周知のように、難事業を任された重源は、留学経験を活かして、陳和卿をはじめ、宋の工匠たちを呼び寄せた。焼失した仏具・経典類の、輸入を依頼された博多の中国商人たちも、たびたび奈良にやってくる。平城京の時代まで、渡来人や外国使節が出入りしていたこの地で、人と人とが直接触れ合う国際交流が再開したのである。
もちろん摩擦も生じる。大仏鋳造に日本の鋳物師を参加させると、陳和卿らは当初、「不快之色」を示した。しかし、後には「和顔」に変わっていったという。また、ここで誕生した大仏様は、宋と日本の技術を融合したもので、各地の寺社建築に波及していく。日中両国の技術者たちが、いかにして異文化摩擦を克服したのか、そのことが斬新な技術や意匠の創出にどう関わるのが、学生たちと議論してみたい問題である。
再建事業が終っても、南都での異文化融合と発信は続いた。まず、帰国せず大和を中心に、活動を続けた工匠たちがいる。中国寧波出身の石工、伊行末もその一人だ。大和の在来様式を踏まえながら、随所に創意的な意匠と技巧を見せる作風で、日本の石造界に確固たる地位を築いた。直系の行吉・行経はじめ、彼の系譜に連なる石工たちの洗練された仕事は、大和を中心に西日本一帯で見ることができる。私たちが日本の伝統的な美を感じる中世の石塔や、石仏の様式の確立に、彼らの果たした功績は大きい。室町時代に奈良で饅頭業を始めた林浄因とその子孫も、和菓子の歴史の中で、同じ役割を演じたといえる。 大和の製薬業は、現在まで続く代表的な伝統産業である。戦国時代から著名になった豊心丹は、鎌倉時代に西大寺の叡尊が、神から薬の処方を授かったのが起源という。但し、より古い所伝では、授けたのは神ではなく張三官という中国人になっている。この由緒の真偽はともかくとしても、中国系の医療者が、中世の大和で営業していたことは、確かであった。鎌倉時代の説話には、歯一本につき銭ニ文で治療する、南都の唐人歯医者が登場する。当大学の近くにあった内山永久寺でも、鎌倉後期に宋人の医師が、病僧のために薬を調合したことが、興福寺関係の記録に書かれている。
従来は大峰山や金剛山の豊富な薬草が、大和の製薬業の原動力といわれてきた。だが、ここで述べてきた中世の在日外国人の存在や、異文化交流の場としての奈良の特性も、関係ありそうだ。室町末期の成立という薬学書『金瘡秘伝』には、豊心丹の処方に、国産の薬草とともに、朝鮮の人参、インドの白檀、タイやベトナムの沈香、インドネシアの丁子、中国チベットの麝香などがあがっている。原料でもアジア諸地域とつながっていたのである。それぞれの産地でこれらがどのように採取され、いかなる人々の手を経由して、奈良までたどり着くのか。これも学生たちと調べてみたい課題である。