海の彼方への記憶
 

  五島の人々は、親友や仲の良い者を「チング」と呼ぶ。最近、韓国の友人とこの島々を訪れた時、この言葉が話題になった。同音同意語が韓国にもあるからである。「チング」は対馬でも使われているらしい。これが単なる偶然なのか、かつての交流の名残りなのか、私にはまだわからない。ただ、この呼びかけに、見知らぬ者同士の警戒心を解く作用があることに、興味をひかれるのである。

  対馬がそうであるように中世の五島も、アジアの海上ターミナルであった。風待ちや薪水の補給、船の修造や情報収集、貨物の補充や交易、様々な必要から中国・韓国との貿易船が寄港していた。島の海中から中国式の古い碇石が発見された数は、博多湾に次いで多いという。倭寇の時代には、そのネットワークの重要拠点にもなる。海の彼方の人々と、いろんな出会いが五島の人々にあったに違いない。

  今でも五島の海辺で、中世の陶磁片を拾うことができる。地元の研究者が採集整理したその量を見れば、誰でも圧倒されるだろう。これらの多くは中国や韓国からもたらされたものだ。船人が崇敬した五島の北、野崎島の神島神社に、宝物として伝わる中世の焼物も全て舶載品である。

  だが島人たちは別の話を伝えてきた。「はるか沖に優れた焼物を作る島があったが、突然沈んでしまった。今に伝わる焼物や破片は、此処で焼かれたものである」。柳田国男も注目した「高麗島」の伝説である。陶磁器が重要な貿易品だったことを、五島の人々は忘れてしまったのだろうか。

  いや、そうではない。厳しい鎖国体制で閉じ込められた近世の島人たちの鬱屈した思いが、込められているのではなかろうか。海底に沈んでいるのは島ではなく、海の彼方と自由に往来できた時代の記憶である。だからこそ、この島が「高麗」の名で呼ばれるのだろう。
 
  五島の西北はるかに、高麗瀬、高麗曽根と云う伝説ゆかりの海中岩礁がある。現代の漁船で約一時間半の距離。其処からさらに三時間も行けば、韓国の済州島が望めるという。(藤田 明良)

   (網野善彦ほか編『日本写真民俗大系6 東シナ海と西九州』、日本図書センター、 2000年4月  より)
 

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